(序章)
デスクの上に無造作に積まれた札束。
加賀見芳信は、その束を一本一本確かめながら、指先で紙幣を弾いた。
満悦の笑みが、その口元に浮かぶ。
羽生総裁の就任以降、党内に「政治資金監察委員会」が新たに設けられ、裏金の取り締まりは一気に厳しくなった。
だが、加賀見は抜け道を熟知していた。帳簿の改ざん、間接的な口座の移し替え、外部業者を介した中継ぎ――古くからの“やり方”を駆使し、証拠を巧妙に消した。
企業の封筒を開き、札を確認する手つきは緩まない。ほくそ笑む顔に冷たさが宿る。
――それでも、数を重ねるたびに、胸の奥でチクリと痛む小さな棘。
それに気づいているのか、あるいは気づかぬふりをしているのか。
加賀見は札束を整え、机の引き出しを閉じた。
(第一章 苛立ち)
あの日の総裁選。
共に競った秋山は正進党総務会長、道本は防衛大臣。それぞれが重要ポストに選任された。
だが、自分には何の役職も与えられなかった。
「なぜ俺だけが――」
こんなことは前例にない。不満が胸の奥で煮え立つ。長年党に尽くしてきたという自負が、冷たく踏みにじられたような気がした。
だが、羽生への苛立ちの根はそれだけではなかった。
羽生の口から出る「誠実」「理想」「国民のため」――そのどれもが、耳にするたびに虫酸が走る。
あの女は綺麗事を信じて疑わない。
現実を知らぬ理想論者が、どの面を下げて政を語るのか。
心の中でそう吐き捨て、煙草に火を点けた。
その日、正進党本部で国防に関する会議が行われていた。
会議が終わると、道本慶一郎防衛相が加賀見に声をかけてきた。
「噂で聞いたのですが、加賀見先生は、かつてニュースキャスターだったのですか?」
道本の言葉に、加賀見の眉が僅かに動く。
「昔な。……くだらん思い出話などするつもりはないぞ。」
元ニュースキャスターとして、かつては報道番組の顔だった――キー局のアナウンサーから国会議員になった、異色の経歴の持ち主だ。
何故か思い出したくもないあの頃の話をされて、また一つ胸の奥がチクリとする。
背中越しに感じる道本の視線が、どこか羽生と重なるようで、さらに苛立ちが募った。
――こいつも嫌いだ。羽生と同じ匂いがする。理想を真っ直ぐ信じているような、そんな目をしてやがる。
(第二章 震える視線)
正進党本部の廊下で、羽生とすれ違った。
無言で通りすぎようとした瞬間、加賀見の口から言葉が滑り出した。
「……綺麗事ばかりの理想論者が。」
小声だが、はっきりと聞こえるように吐き捨てる。醜悪で低い響きだった。
羽生は立ち止まり、静かに振り返る。
その眼差しには怒りも侮蔑もなく、ただ落ち着きだけがあった。
「そうですね……でも、先生。あなたに教えてもらった“理想”を、私はまだ信じていますよ。」
稲妻が走るような衝撃が、加賀見の胸を貫いた。
即座に睨み返そうとしたが、どうしても羽生の目をまっすぐ見られない。
視線を逸らし、足早にその場を去るしかなかった。
背を向けて歩き去る羽生の後ろ姿が、妙に眩しかった。
(第三章 光を映さぬ鏡)
あの日以来、羽生の言葉が胸に突き刺さったまま抜けない。
「あなたに教えてもらった“理想”を、私はまだ信じていますよ。」
あの言葉が、なぜか頭から離れなかった。
企業の重役たちと囲む高級料亭の個室。テーブルの上に並ぶ分厚い封筒。
笑い声とともに交わされる密談の中で、加賀見は相槌を打ちながらも、まるで上の空だった。
目の前に置かれた封筒が、妙に白々しく見える。
――なぜ、俺はここにいる?
――いつから、俺はこうなった?
その問いが、次第に形を持ちはじめた。
思い返せば、あの羽生という女。
綺麗事ばかり並べる理想主義者だと思っていた。羽生を見る度に募る嫌悪感はそれが原因だと思っていた。
だが、そうではなかった。
彼女の姿は、かつて政治家を志した若き日の自分自身を思い出させる。
日本の政治の腐敗を憂い、自らの手で政治を正そうとの理想を胸に掲げ、真っ直ぐ国を想っていたあの頃を…
いつからか、それを嘲り、踏みにじってきたのは――他でもない、この俺だ。
その現実から目を背けたくて、無意識のうちに過去を思い出さないようにしていたのだ。
羽生が“理想を信じ、真っ直ぐに進み続ける存在”であるほどに、加賀見の胸の中の醜悪さが、より鮮明に浮かび上がっていく。
嫌悪感の正体は、嫉妬であり、自己嫌悪であり、かつての自分への裏切りだった。
――羽生は、俺の鏡だ。
羽生という鏡は、醜い姿へと変貌した自分を、容赦なくはっきりと映し出してしまった。
鏡の中には、もう取り戻せぬ自分が映っている。
その夜、取引を終えてホテルの一室に戻ると、加賀見は封筒を机の上に投げ出し、ただ静かに天井を見つめた。
(第四章 蘇る記憶)
夜のオフィス。窓の外はすでに街の明かりもまばらだった。
ウイスキーグラスを揺らしながら、加賀見は重く息を吐いた。
思考の底で、ふいにニュースキャスターだった頃の、遠い記憶が蘇る。
――あの頃のニュースは、連日のように政治家たちの汚職事件が報道されていた。
報道されるたびに、国民の失望と怒りが広がっていくのを感じていた。
照明が眩しく光るスタジオ。
加賀見はニュースデスクの前に立ち、震える手で原稿を握り締めていた。
「この国の政治は腐っている!」
怒りを顕にして言い放つ野太い声がスタジオに響いた。
腐敗を正すには、内側から変えるしかない。
政治の世界をクリーンにしようと原稿を置いた瞬間、加賀見は自らが政治の世界に飛び込む決意をしたのだった。
腐敗を忌み嫌った筈の自分が、気が付けば腐敗の中心に居たのだ。胸の奥に冷たさと痛みが混ざり合う。
ふと、視界に窓際の壁に貼られた一枚の選挙ポスターが映った。
“清廉・誠実・信念”と書かれた文字がエコーのように心に響く。
初めて出馬した頃のものだった。
そこには、理想に燃えた若き日の自分が、力強く笑っている。
――あの頃の俺は、どこへ行った?
――いつから俺は、この言葉を笑うようになった?
ポスターの中の自分が、静かに問いかけてくるようだった。
加賀見は、目を逸らすようにそっと窓の外を見つめた。
夜の街は暗く、まるで何も映さぬ闇のように、彼の心を飲み込んでいた。
(第五章 告白)
翌朝、加賀見は決意して羽生の執務室を訪ねた。
いつもより重いドアを開ける。
書類から顔を上げた羽生は、突然の訪問に戸惑いの表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みで迎えた。
加賀見は、深く一礼した。
「総理……私の、不正取引について、すべてお話しします。これまでの過ちを、どうか調べ上げてください。」
羽生のまつ毛がわずかに揺れた。驚きの色が瞳をよぎる。その後、微笑みを浮かべて口を開いた。
その笑顔は寂しそうにも、嬉しそうにも見えた。
「――わかりました。政治資金監察委員会にて、徹底的に調査を行っていただきます。そして、処分が決定するまでの間は、謹慎を命じます。」
その声には、冷たさではなく、確かな覚悟があった。
加賀見はその言葉を正面から受け止め、黙って頷いた。
あの日から避けてきた羽生の目を、今は真っ直ぐ見つめることができる。
(終章)
委員会による処分の決定を、加賀見は自宅で静かに待っていた。
テレビでは、国会中継が流れている。壇上では羽生が力強く演説していた。
「正しいことを選ぶのは、時に難しい。けれど、その難しさから逃げる政治には、未来はありません。私は、責務として“正しさ”を貫きます。」
その言葉が響くたび、加賀見の胸に重く沈んでいた何かが、わずかに揺らぐ。
画面の中の羽生は真っ直ぐだった。
疑いも、ためらいもない。
まるで、かつて理想を追っていた頃の自分自身を見るようだった。
「羽生……お前は、本当に、理想でこの国を変えようとしてるんだな。」
呟いた声は、誰にも届かない。
「……俺は、いつからだ。理想を笑うようになったのは。」
手のひらを見つめる。
かつてマイクを握り、真実を訴えていたその手はいま、震えていた。
けれど、もう逃げるまい。
自分の罪と向き合い、できることを果たそう。
――これからは、羽生たちを陰から支えよう。
理想を掲げ、前を進む者たちの歩みを、この目で見届けよう。
テレビの中で、羽生が深々と一礼した。
その姿を見つめながら、加賀見は静かに息を吐いた。
――これが、俺に残された最後の償いだ。
テレビを消すと、窓の外では小雨が静かに降り始めていた。
―完―
デスクの上に無造作に積まれた札束。
加賀見芳信は、その束を一本一本確かめながら、指先で紙幣を弾いた。
満悦の笑みが、その口元に浮かぶ。
羽生総裁の就任以降、党内に「政治資金監察委員会」が新たに設けられ、裏金の取り締まりは一気に厳しくなった。
だが、加賀見は抜け道を熟知していた。帳簿の改ざん、間接的な口座の移し替え、外部業者を介した中継ぎ――古くからの“やり方”を駆使し、証拠を巧妙に消した。
企業の封筒を開き、札を確認する手つきは緩まない。ほくそ笑む顔に冷たさが宿る。
――それでも、数を重ねるたびに、胸の奥でチクリと痛む小さな棘。
それに気づいているのか、あるいは気づかぬふりをしているのか。
加賀見は札束を整え、机の引き出しを閉じた。
(第一章 苛立ち)
あの日の総裁選。
共に競った秋山は正進党総務会長、道本は防衛大臣。それぞれが重要ポストに選任された。
だが、自分には何の役職も与えられなかった。
「なぜ俺だけが――」
こんなことは前例にない。不満が胸の奥で煮え立つ。長年党に尽くしてきたという自負が、冷たく踏みにじられたような気がした。
だが、羽生への苛立ちの根はそれだけではなかった。
羽生の口から出る「誠実」「理想」「国民のため」――そのどれもが、耳にするたびに虫酸が走る。
あの女は綺麗事を信じて疑わない。
現実を知らぬ理想論者が、どの面を下げて政を語るのか。
心の中でそう吐き捨て、煙草に火を点けた。
その日、正進党本部で国防に関する会議が行われていた。
会議が終わると、道本慶一郎防衛相が加賀見に声をかけてきた。
「噂で聞いたのですが、加賀見先生は、かつてニュースキャスターだったのですか?」
道本の言葉に、加賀見の眉が僅かに動く。
「昔な。……くだらん思い出話などするつもりはないぞ。」
元ニュースキャスターとして、かつては報道番組の顔だった――キー局のアナウンサーから国会議員になった、異色の経歴の持ち主だ。
何故か思い出したくもないあの頃の話をされて、また一つ胸の奥がチクリとする。
背中越しに感じる道本の視線が、どこか羽生と重なるようで、さらに苛立ちが募った。
――こいつも嫌いだ。羽生と同じ匂いがする。理想を真っ直ぐ信じているような、そんな目をしてやがる。
(第二章 震える視線)
正進党本部の廊下で、羽生とすれ違った。
無言で通りすぎようとした瞬間、加賀見の口から言葉が滑り出した。
「……綺麗事ばかりの理想論者が。」
小声だが、はっきりと聞こえるように吐き捨てる。醜悪で低い響きだった。
羽生は立ち止まり、静かに振り返る。
その眼差しには怒りも侮蔑もなく、ただ落ち着きだけがあった。
「そうですね……でも、先生。あなたに教えてもらった“理想”を、私はまだ信じていますよ。」
稲妻が走るような衝撃が、加賀見の胸を貫いた。
即座に睨み返そうとしたが、どうしても羽生の目をまっすぐ見られない。
視線を逸らし、足早にその場を去るしかなかった。
背を向けて歩き去る羽生の後ろ姿が、妙に眩しかった。
(第三章 光を映さぬ鏡)
あの日以来、羽生の言葉が胸に突き刺さったまま抜けない。
「あなたに教えてもらった“理想”を、私はまだ信じていますよ。」
あの言葉が、なぜか頭から離れなかった。
企業の重役たちと囲む高級料亭の個室。テーブルの上に並ぶ分厚い封筒。
笑い声とともに交わされる密談の中で、加賀見は相槌を打ちながらも、まるで上の空だった。
目の前に置かれた封筒が、妙に白々しく見える。
――なぜ、俺はここにいる?
――いつから、俺はこうなった?
その問いが、次第に形を持ちはじめた。
思い返せば、あの羽生という女。
綺麗事ばかり並べる理想主義者だと思っていた。羽生を見る度に募る嫌悪感はそれが原因だと思っていた。
だが、そうではなかった。
彼女の姿は、かつて政治家を志した若き日の自分自身を思い出させる。
日本の政治の腐敗を憂い、自らの手で政治を正そうとの理想を胸に掲げ、真っ直ぐ国を想っていたあの頃を…
いつからか、それを嘲り、踏みにじってきたのは――他でもない、この俺だ。
その現実から目を背けたくて、無意識のうちに過去を思い出さないようにしていたのだ。
羽生が“理想を信じ、真っ直ぐに進み続ける存在”であるほどに、加賀見の胸の中の醜悪さが、より鮮明に浮かび上がっていく。
嫌悪感の正体は、嫉妬であり、自己嫌悪であり、かつての自分への裏切りだった。
――羽生は、俺の鏡だ。
羽生という鏡は、醜い姿へと変貌した自分を、容赦なくはっきりと映し出してしまった。
鏡の中には、もう取り戻せぬ自分が映っている。
その夜、取引を終えてホテルの一室に戻ると、加賀見は封筒を机の上に投げ出し、ただ静かに天井を見つめた。
(第四章 蘇る記憶)
夜のオフィス。窓の外はすでに街の明かりもまばらだった。
ウイスキーグラスを揺らしながら、加賀見は重く息を吐いた。
思考の底で、ふいにニュースキャスターだった頃の、遠い記憶が蘇る。
――あの頃のニュースは、連日のように政治家たちの汚職事件が報道されていた。
報道されるたびに、国民の失望と怒りが広がっていくのを感じていた。
照明が眩しく光るスタジオ。
加賀見はニュースデスクの前に立ち、震える手で原稿を握り締めていた。
「この国の政治は腐っている!」
怒りを顕にして言い放つ野太い声がスタジオに響いた。
腐敗を正すには、内側から変えるしかない。
政治の世界をクリーンにしようと原稿を置いた瞬間、加賀見は自らが政治の世界に飛び込む決意をしたのだった。
腐敗を忌み嫌った筈の自分が、気が付けば腐敗の中心に居たのだ。胸の奥に冷たさと痛みが混ざり合う。
ふと、視界に窓際の壁に貼られた一枚の選挙ポスターが映った。
“清廉・誠実・信念”と書かれた文字がエコーのように心に響く。
初めて出馬した頃のものだった。
そこには、理想に燃えた若き日の自分が、力強く笑っている。
――あの頃の俺は、どこへ行った?
――いつから俺は、この言葉を笑うようになった?
ポスターの中の自分が、静かに問いかけてくるようだった。
加賀見は、目を逸らすようにそっと窓の外を見つめた。
夜の街は暗く、まるで何も映さぬ闇のように、彼の心を飲み込んでいた。
(第五章 告白)
翌朝、加賀見は決意して羽生の執務室を訪ねた。
いつもより重いドアを開ける。
書類から顔を上げた羽生は、突然の訪問に戸惑いの表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みで迎えた。
加賀見は、深く一礼した。
「総理……私の、不正取引について、すべてお話しします。これまでの過ちを、どうか調べ上げてください。」
羽生のまつ毛がわずかに揺れた。驚きの色が瞳をよぎる。その後、微笑みを浮かべて口を開いた。
その笑顔は寂しそうにも、嬉しそうにも見えた。
「――わかりました。政治資金監察委員会にて、徹底的に調査を行っていただきます。そして、処分が決定するまでの間は、謹慎を命じます。」
その声には、冷たさではなく、確かな覚悟があった。
加賀見はその言葉を正面から受け止め、黙って頷いた。
あの日から避けてきた羽生の目を、今は真っ直ぐ見つめることができる。
(終章)
委員会による処分の決定を、加賀見は自宅で静かに待っていた。
テレビでは、国会中継が流れている。壇上では羽生が力強く演説していた。
「正しいことを選ぶのは、時に難しい。けれど、その難しさから逃げる政治には、未来はありません。私は、責務として“正しさ”を貫きます。」
その言葉が響くたび、加賀見の胸に重く沈んでいた何かが、わずかに揺らぐ。
画面の中の羽生は真っ直ぐだった。
疑いも、ためらいもない。
まるで、かつて理想を追っていた頃の自分自身を見るようだった。
「羽生……お前は、本当に、理想でこの国を変えようとしてるんだな。」
呟いた声は、誰にも届かない。
「……俺は、いつからだ。理想を笑うようになったのは。」
手のひらを見つめる。
かつてマイクを握り、真実を訴えていたその手はいま、震えていた。
けれど、もう逃げるまい。
自分の罪と向き合い、できることを果たそう。
――これからは、羽生たちを陰から支えよう。
理想を掲げ、前を進む者たちの歩みを、この目で見届けよう。
テレビの中で、羽生が深々と一礼した。
その姿を見つめながら、加賀見は静かに息を吐いた。
――これが、俺に残された最後の償いだ。
テレビを消すと、窓の外では小雨が静かに降り始めていた。
―完―