(序章)
初夏の陽射しがグラウンドの砂を白く照らしていた。
打球の音が乾いた空に弾け、グローブの革が鳴る。
宮城県の片田舎にある桜井中学校野球部の、いつもの光景だ。
練習が終わると、汗だくのチームメイトが興奮気味にある話題を持ちかけた。
「おい、聞いたか。稲尾さんが今度の……えーと、なんだっけ、参議院選挙?出るらしいぞ」
稲尾謙司――元プロ野球選手で、かつて仙台レンジャーズの四番打者として、三度のホームラン王に輝いた経歴を持つ。
「嘘だろ…稲尾謙司が?」
この話題に誰よりも目を丸くしたのは、三年生の道本慶一郎だ。
道本が最も憧れた選手が、政治家になる――。
その事実が、道本にはどうしても納得できなかった。
「何でだよ……。なんで政治家なんかに……」
呟いた声は、グラウンドの風に掻き消された。
道本は政治家に対し、あまり良い印象を持っていなかった。
悪い政治家が得をして、正しい国民が損をする――。
そういう世界だと、子どもながらに感じていた。
家に帰ると、祖父がいつものようにリビングでニュースを観ていた。
また今日も政治家たちの汚職事件のニュースだ。
画面の中のキャスターが吐き出す言葉のひとつひとつが、胸の奥を妙にざらつかせた。
「この国の政治は腐っている!」
怒りを顕にして言い放つ野太い声が、テレビを通してリビングに響いた。
「……やっぱり、政治家なんて碌なものじゃない」
そう言って自分の部屋に引きこもる。
机の上には、使い古したグローブ。
破れかけた革の匂いに、胸の奥が締めつけられた。
三年間レギュラーにもなれず、夢見たプロ野球選手の道も遠のいた。
窓の外では、夕暮れがゆっくりと沈んでいく。
グローブを見つめながら、道本は小さく呟いた。
「俺は、これから何になりたいんだろうな……」
その問いの答えを、彼が見つけるのは――
それから二十年後のことだった。
(未来への扉)
春の風がまだ冷たい三月の朝。
宮城県庁の窓から差し込む光の中で、道本慶一郎はパソコンの画面に目を落としていた。東北大学を卒業した後、宮城県庁に勤めて十二年。産業振興課の係長として、地元企業支援の現場を駆け回る毎日。
人の役に立ちたい。地元の為に働きたい。——それが彼の、ささやかな夢であり、その思いだけでこれまで働いてきた。
昼休み、同僚が新聞を手に話しかけてきた。
「なぁ、政府が東南アジアの国々との、新しい経済連携協定『EPA』を発表したらしいぞ」
見出しには《日本、東南アジア諸国とEPA交渉へ》とある。
賛否が大きく割れていた。「競争が激しくなって潰される」という声もあったが、道本には、開かれた市場の先に広がる可能性も感じられた。
「日本が世界で戦うには、避けて通れない道かもしれない」
そう口にすると、同僚は肩をすくめた。
「お前、政治家みたいなことを言うなよ」
笑って返す道本も、まさかその言葉が現実になるとは思っていなかった。
数日後、父から「久しぶりに帰ってこい」と電話があった。
週末、実家の玄関を開けると、懐かしい顔があった。
「おお、慶一郎くん。立派になったな」
父の旧友で、地元選出の衆議院議員・森賢三。幼い頃、何度か野球を教えてもらった記憶がある。
しかし、その顔はやややつれていた。
夕食の席で、森は穏やかに切り出した。
「実はな……体を悪くしてしまってね。これ以上の政治活動はもう続けられそうにない」
道本は箸を止めた。
「そうでしたか……それは残念です」
「それで、だ」森は一拍置き、真剣な目で慶一郎を見た。
「君に、後を継いでほしい。正進党から出馬してもらえないか」
あまりに唐突な言葉に、息をのんだ。
「なぜ、僕なんですか」
「君のことはよく知っている。真面目で、責任感が強くて、誰よりも人の話を聞ける男だ。後援会の人たちも、県庁での働きぶりを高く評価している」
「でも……僕は政治なんて……」
政治家という言葉には、幼い頃からどこか濁った響きがあった。
森は続けた。
「今度の選挙は、あの経済連携協定が最大の争点になる。もし君が賛成の立場を取るなら、正進党の公認が得られる。不安を訴える声もあるが、未来を信じる声もある。君のような若者が立ち上がる意味は大きい」
夜、帰りの車の中で、道本はハンドルを握りながら考えた。
政治家になるなんて、ありえない――そう思ってきた。
だが、地元企業の人々と接する中で感じてきた不安や停滞を変えるには、制度を作る側に回るしかないのかもしれない。
窓の外を流れる街の灯りが、いつもより遠くに見えた。
数週間後、正進党の本部で公認が決まった。
「若いけど、誠実さが伝わる。それが一番だ」
森の言葉に背を押され、道本は初めて街頭演説に立った。
「この町の技術と人の力を、世界へ届けたい!」
その声はまだ頼りなかったが、聴衆の中には確かに頷く人々がいた。
地元選挙区の立候補者の中で、EPA賛成を掲げた唯一の候補として注目され、やがて情勢は追い風に変わっていった。
投開票の夜。
小さな事務所に歓声が上がった。
道本慶一郎、初出馬にして初当選。
森は涙を浮かべて手を握った。
「ありがとう……君に託してよかった」
道本は、喧騒の中でふと窓の外を見た。
夜空には薄い雲がかかっていたが、遠くの街明かりがその向こうに淡く滲んでいた。
――この光を、濁らせないように。
心の中でそう呟いた。
(影を裂く声)
当選から十六年。
五十歳になった道本慶一郎は、今や党内でも着実に存在感を高めつつあった。
正進党所属の衆議院議員として、現在は文部科学大臣政務官を務め、教育・科学技術分野の政策調整に携わっている。
地元経済から国の研究開発に至るまで、現場感覚を生かした実務派として知られ、地味ながらも官僚や与党内での信頼を着実に積み重ねてきた。
彼が属するのは、かつて長谷川宗輔元法務大臣が率いた穏健保守の派閥。――森が属していた派閥にそのまま入会した形だ。
だが、その長谷川が引退した今、派閥は槌谷一央のものとなっていた。
政界における槌谷の影響力は強大だった。古賀政権の崩壊後、党内の主流を取りまとめ、新たな政権を打ち立てたのが彼だ。
だがその手腕の裏に、どこか薄暗いものを感じるようになったのは、道本だけではなかった。
ある日の派閥会合。
日中共同人材交流・先端研究連携構想「日中次世代人材育成・研究連携プログラム(略称:JCFP)」
――そう銘打たれた新たなプロジェクトが発表された。
表向きは日本と中国が人材・技術の分野で協力し、技術革新と経済連携の促進を進めるというもの。
しかし配られた資料を目にした瞬間、道本の心に警鐘が鳴った。
“先端技術の共有”“共同特許申請制度”――いずれも、日本の研究成果が容易に国外へ流出しかねない内容だった。
「こんなものが、本当に国益になるのか……?」
議員宿舎に戻った夜、道本は資料を机に広げたまま、眠れずにいた。
翌朝、彼は同じ派閥の先輩議員・伊計かずえの部屋を訪ねた。
伊計は冷めたコーヒーを手に、穏やかに言った。
「慶一郎くん、少し考えすぎじゃないかしら。総理がここまで準備してる案件よ。きっと裏で安全策も考えてるわ。」
その言葉に、道本は返す言葉を失った。
だが、数日経っても胸のつかえは取れなかった。
道本は思い切って、経済産業大臣・高村浩二のもとを訪ねた。
高村はデスク越しに資料を読み、静かに頷いた。
「……ふむ。内容は興味深いが、確かに一方的すぎるな。……俺は昔から、槌谷総理の“方向性”には疑問を持ってる。」
「やっぱり、そう思われますか。」
「思う。だがこれは派閥の内々で動いている案件だ。下手に動けば、すぐ潰される。」
それでも二人は、関係省庁の資料を洗い始めた。 だがどの文書も“非公開”“再提出中”の印が押され、手がかりは掴めない。
「上からの指示で……」
経産官僚の一人が口にしたその言葉が、全てを物語っていた。
数日後、高村は党本部で槌谷と直接会談を行った。
「総理、この構想の内容について、私どもにももう少し説明をいただけませんか。技術移転や資金の流れなど、不透明な点が多い。」
槌谷は、笑みを崩さずに答えた。
「高村君、細かいことを気にしすぎだ。これは経済外交の新しい形なんだ。今の時代、鎖国的な発想では世界に置いていかれる。」
議論は平行線を辿った。
最後には槌谷の側近たちが会話を断ち切り、会談は形だけで終わった。
その日の夕方。
高村は重くため息をついた。
「このままじゃ、握りつぶされるな……羽生政調会長に話を通そう。」
道本はうなずいた。
「お願いします。」
翌週、党本部の政策会議室。
羽生晴子政務調査会長は資料を一瞥し、即座に言った。
「これは危険ね。日本側の主導権がどこにもない。……白川さん、動けますか?」
経産副大臣の白川舞が頷く。
「省内の審査を徹底します。必要なら、内部監査も。」
羽生の指示のもと、調査が始まった。
白川が省内から引き出した機密資料には、中国側の企業が共同出資の名目で研究費の大半を握り、成果物の知的財産を「共有」とする条項が記されていた。
報告を受けた羽生は、党執行部の緊急会議でその内容を公にした。
「この構想は、国家の技術的主権を危うくします。」
羽生の厳しい言葉に、会場は静まり返った。
槌谷は、無表情のまま一言だけ返した。
「……分かった。構想は一度、白紙に戻そう。」
その瞬間、空気がわずかに揺れた。
長く張り詰めていた糸が切れるように。
だが道本の胸には、達成感よりも奇妙な空虚さが残った。
――自分は何も出来なかった。
最初に危険を感じたのは自分だったのに、結局、自分には何一つ変えられなかった――その思いだけが、胸の奥に沈んでいた。
(信念の灯)
計画の白紙化が決まったあとも、道本の胸には重いものが残っていた。
高村や羽生の迅速かつ、的確な対応に、ただ圧倒されるばかりだった。この二人に比べ、自分は何一つ成し遂げられなかった。
槌谷の説明を追及しようと何度も発言の機会を求めたが、若手議員である彼の声は会議のざわめきに飲まれ、誰にも届かなかった。
資料の分析を任された際も、関係部署から提示されたものは黒塗りばかりで、何一つ掴めずじまい。
――結局、自分には、何もできなかった。
その無力感の中で、彼は一つの決意をする。
「もう槌谷派にはいられない」
そう悟った彼は、高村の誘いを受け、高村派へと移籍した。
しかし、今回の件で道本を恨んだ槌谷の報復は容赦なかった。
週刊誌やテレビ番組が一斉に「極右議員・道本慶一郎」「差別主義の急先鋒」といった見出しを掲げた。
街を歩けば、知らない人々の冷たい視線が刺さる。
同僚議員の中には、露骨に距離を取る者もいた。
「正しいことをしたはずなのに……」
その言葉は、自分に向けても響かなくなっていた。
ついには、議員辞職の二文字が脳裏をよぎった。
ある日の夕刻、道本は党本部の会議室で一人、資料を片付けていた。
扉が開くと、羽生晴子が入ってきた。
彼女は柔らかく微笑み、道本に向かって言った。
「先日は、ありがとうございました」
突然の言葉に、道本は目を瞬かせる。
「え?何の……お礼ですか?」
「槌谷総理の構想を止めるきっかけを作ってくださったのは、あなたです。あなたが動かなければ、私たちも気づけなかったかもしれません」
道本は視線を落とし、ゆっくりと首を振った。
「そんな……私は、何もできませんでした。
高村さんやあなたが動いたから、止められたんです。私は、ただ……空回りしていただけで、もう……」
道本は俯いたまま、唇を噛んだ。
――目を閉じると、街行く人々の、自分を見つめる白い目が目に浮かぶ。
「……もう、自分には何が正しいのかも分からないんです」
羽生は静かに彼を見つめ、席に腰を下ろした。
会議室の窓から射す夕陽が、彼女の横顔を照らしていた。
「誰かに正しさを決めてもらおうとするから、分からなくなるんです。自分が信じる正しさを、最後まで手放さない人だけが、この国を動かせる。あなたが国のために苦しんだその時間が、もう答えなんですよ」
その言葉は、道本の胸を貫いた。
涙を隠すように、道本は頭を下げてその場を去った。
窓の外では、オレンジ色の空が群青に変わり始めていた。
その光の移ろいを見つめながら、道本は小さく息を吐いた。
――まだ、終わりじゃない。
その夜、彼はデスクの上の辞表を、引き出しにそっと仕舞った。
どれほど力不足でも、蔑まれても、背を向けるわけにはいかない。
自分は、国民に選ばれた議員なのだから。
胸の奥で、再び小さな炎が灯り始めた。
それはまだ弱々しくとも、確かに信念の灯火だった。
(二つの 鼓動)
国民に厳しく、外国に甘い——
そう評されるようになった槌谷政権への不満は、日に日に高まっていた。
物価高に対する無策、中国への譲歩を重ねる外交。
街頭では批判の声が幾度となく響いた。
「槌谷は日本を売る気か!」
槌谷に辞任を求めるデモが、日本各地で勃発した。
内閣支持率は、正進党史上最低の7%。
党への信頼も急落し、街の空気には重苦しい諦めが漂っていた。
一方、台頭してきたのは新興政党「護国の集い」
党首・水野崇史の演説は、激情と理路が入り混じり、聴衆を惹きつけた。
「国民には増税を押し付け、企業には規制を課す。だが、外国にはどうだ?金をばらまき、頭を下げ、笑顔を振りまいている!」
「槌谷政権は“国際協調”の名のもとに、日本の誇りと技術を、他国に売り渡そうとしている!私は声を大にして言う!我々は――この国を、国民の手に取り戻さなければならない!!」
その瞬間、群衆が一斉に歓声を上げた。
水野の熱が、停滞した政治への怒りを火種に変えていた。
「真の保守政党」を名乗る護国の集いは、瞬く間に支持を広げ、国民の不満を背に、その勢いを増していく。
その頃、正進党本部では混乱が極まっていた。
槌谷の退陣表明。
党の未来を決める総裁選が、目前に迫っていた。
その騒然とした政界の渦中、道本は一通の電話を受けた。
差出人は、高村浩二。
――翌日、経産省の応接室。
壁にかけられた時計の針が、昼を少し過ぎた時刻を指している。
高村はソファに深く腰を下ろし、腕を組んだまま、道本を見据えた。
「次の総理は、おそらく田島さんだろう」
田島佐市——かつて古賀政権下で幹事長を務めた他、外務大臣や総務大臣といった重要ポストを歴任してきた男。
実務能力に長け、党内でも屈指の調整力を持つ。
“古賀の右腕”と呼ばれたその名は、誰もが知る存在だった。
高村は続けた。
「今のうちから、君を田島さんに売り込もうと思う。上手く行けば、大臣のポストを打診されるかもしれん」
道本は、反射的に顔を上げた。
「だ、大臣……ですか? 私が……?」
「そうだ」
高村は頷く。
「君にはもう、それだけの器がある。そう思っている」
道本は、しばらく何も言えなかった。
胸の中で、過去の自分の姿が蘇る。
羽生や高村と共に動いたあの日。
資料を集め、証拠を探し、しかし何も掴めず終わった。
そして、ぽつりと呟くように言った。
「……高村さん、私には無理です」
「無理?」
高村の眉がわずかに動く。
「私は、あの時、何もできなかった。高村さんや羽生さんが動いてくれたから、あの構想は止められたんです。私はただ……空回りして、足を引っ張っただけです」
静まり返る応接室。
その言葉の重さを測るように、高村は目を細めた。
そして数秒の沈黙のあと——
「……あはははっ!」
突然の笑い声が、部屋に響いた。
道本は驚いて目を見開く。
「え……な、何がおかしいんですか?」
高村は笑いながらも、目尻を拭った。
「すまん、すまん。いや……あまりに君らしいと思ってな」
「らしい……?」
「そうだ。君はいつも、自分のことを低く見過ぎている。だがな、俺から見れば、あの時の君は誰よりも真っすぐだった」
高村は続けた。
「君の正確な報告書のお陰で総理の構想に気付けた。君が集めてくれた資料は判断材料として、十分に役に立った。その一つひとつが、俺たちを動かしたんだ。俺も羽生さんも、君のことを頼もしく思っていたよ」
高村の声には、確かな温度があった。
「若さに似合わぬ思慮深さ。そして、若さ故の行動力。
確かに空回りした部分はあった。だがな、空回りなんていくらでもすれば良い。本気で政治をやろうとすればするほど空回りするものだ。それでも諦めずに手を伸ばし続けた者が国を動かせるんだ。君は、経験を積めば必ず——日本にとって必要不可欠な政治家になる」
その言葉に、道本の喉が詰まった。
息を飲み、言葉が出ない。
高村はふと表情を和らげ、静かに言った。
「正直、驚いたよ。君が自分をそんなふうに責めていたなんて……気付いてやれなかった。もっと早く、君の評価を言葉にしてやればよかった」
道本は顔を背け、震える手で目元を押さえた。
必死にこみ上げる涙を抑えようとしたが、指の隙間から零れ落ちる。
「……ありがとうございます……高村さん……」
言葉は掠れていたが、そこに確かな決意があった。
高村はその姿を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「もう一度言う。君はこの国に必要な人間だ。
胸を張れ。これからの正進党を、共に立て直そうじゃないか」
窓の外では、冬の陽がゆっくりと沈み始めていた。
その光は淡く、けれど確かに、道本の頬を照らしていた。
(夜明けの気配)
総裁選を前に、党内は慌ただしさを増していた。
最有力と目されるのは、やはり田島佐市だった。
その名が新聞やテレビを賑わせる一方で、政界の裏では静かに、だが確実に人脈の糸が動き始めていた。
ある晩、都内の料亭。
障子越しに灯る淡い光が、三人の輪郭をぼんやりと照らしていた。
高村浩二、田島佐市、そして道本慶一郎。
湯気の立つ鍋を囲みながら、今後の政局の展望や党の行方について、穏やかでいて張り詰めた会話が続いた。
やがて、高村が盃を置き、口を開いた。
「田島さん。彼を紹介しておきたくてね。道本慶一郎君――将来、必ず我が国に欠かすことのできない貴重な人材になると思っています。」
田島はゆっくりと道本の方を見た。
穏やかな笑みの奥で、目だけが鋭く光る。
「……噂はかねがね伺っているよ」
低く落ち着いた声が、部屋の空気を一段と引き締めた。
盃を傾けた田島は、ふと語調を変える。
「この国は、いま曲がり角に立っている。経済も、外交も、教育も、安全保障も。どれ一つとして、悠長に構えていられる状況ではない。
私が総理になった暁には、生半可な覚悟の者を閣僚に置くつもりはない。」
道本は背筋を正した。
胸の奥に、高村と羽生の言葉がよぎる。
己の無力を知り、それでもなお、国を思う気持ちだけは失わなかった日々。
静かに口を開く。
「――覚悟なら、高村さんと羽生さんに教えていただきました。もう絶対に迷いません」
それは田島の胸に届く、確かな響きだった。
田島はしばし黙し、やがて穏やかに微笑む。
「……日本は好きか?」
道本は短く、しかし力強く答えた。
「――はい。命に代えても、守りたい国です」
その一言に、迷いはなかった。
田島はにっこりと笑い、軽く頷く。
「期待している」
その言葉を最後に、会食は幕を閉じた。
料亭の外に出ると、夜風が頬を撫でた。
街の喧騒は遠く、澄んだ空に星が瞬いている。
道本は立ち止まり、しばらくのあいだ空を見上げた。
紺碧の夜空の向こうには、遠い夜明けの気配があった。
AIに生成してもらった、田島佐市のイメージ画像
初夏の陽射しがグラウンドの砂を白く照らしていた。
打球の音が乾いた空に弾け、グローブの革が鳴る。
宮城県の片田舎にある桜井中学校野球部の、いつもの光景だ。
練習が終わると、汗だくのチームメイトが興奮気味にある話題を持ちかけた。
「おい、聞いたか。稲尾さんが今度の……えーと、なんだっけ、参議院選挙?出るらしいぞ」
稲尾謙司――元プロ野球選手で、かつて仙台レンジャーズの四番打者として、三度のホームラン王に輝いた経歴を持つ。
「嘘だろ…稲尾謙司が?」
この話題に誰よりも目を丸くしたのは、三年生の道本慶一郎だ。
道本が最も憧れた選手が、政治家になる――。
その事実が、道本にはどうしても納得できなかった。
「何でだよ……。なんで政治家なんかに……」
呟いた声は、グラウンドの風に掻き消された。
道本は政治家に対し、あまり良い印象を持っていなかった。
悪い政治家が得をして、正しい国民が損をする――。
そういう世界だと、子どもながらに感じていた。
家に帰ると、祖父がいつものようにリビングでニュースを観ていた。
また今日も政治家たちの汚職事件のニュースだ。
画面の中のキャスターが吐き出す言葉のひとつひとつが、胸の奥を妙にざらつかせた。
「この国の政治は腐っている!」
怒りを顕にして言い放つ野太い声が、テレビを通してリビングに響いた。
「……やっぱり、政治家なんて碌なものじゃない」
そう言って自分の部屋に引きこもる。
机の上には、使い古したグローブ。
破れかけた革の匂いに、胸の奥が締めつけられた。
三年間レギュラーにもなれず、夢見たプロ野球選手の道も遠のいた。
窓の外では、夕暮れがゆっくりと沈んでいく。
グローブを見つめながら、道本は小さく呟いた。
「俺は、これから何になりたいんだろうな……」
その問いの答えを、彼が見つけるのは――
それから二十年後のことだった。
(未来への扉)
春の風がまだ冷たい三月の朝。
宮城県庁の窓から差し込む光の中で、道本慶一郎はパソコンの画面に目を落としていた。東北大学を卒業した後、宮城県庁に勤めて十二年。産業振興課の係長として、地元企業支援の現場を駆け回る毎日。
人の役に立ちたい。地元の為に働きたい。——それが彼の、ささやかな夢であり、その思いだけでこれまで働いてきた。
昼休み、同僚が新聞を手に話しかけてきた。
「なぁ、政府が東南アジアの国々との、新しい経済連携協定『EPA』を発表したらしいぞ」
見出しには《日本、東南アジア諸国とEPA交渉へ》とある。
賛否が大きく割れていた。「競争が激しくなって潰される」という声もあったが、道本には、開かれた市場の先に広がる可能性も感じられた。
「日本が世界で戦うには、避けて通れない道かもしれない」
そう口にすると、同僚は肩をすくめた。
「お前、政治家みたいなことを言うなよ」
笑って返す道本も、まさかその言葉が現実になるとは思っていなかった。
数日後、父から「久しぶりに帰ってこい」と電話があった。
週末、実家の玄関を開けると、懐かしい顔があった。
「おお、慶一郎くん。立派になったな」
父の旧友で、地元選出の衆議院議員・森賢三。幼い頃、何度か野球を教えてもらった記憶がある。
しかし、その顔はやややつれていた。
夕食の席で、森は穏やかに切り出した。
「実はな……体を悪くしてしまってね。これ以上の政治活動はもう続けられそうにない」
道本は箸を止めた。
「そうでしたか……それは残念です」
「それで、だ」森は一拍置き、真剣な目で慶一郎を見た。
「君に、後を継いでほしい。正進党から出馬してもらえないか」
あまりに唐突な言葉に、息をのんだ。
「なぜ、僕なんですか」
「君のことはよく知っている。真面目で、責任感が強くて、誰よりも人の話を聞ける男だ。後援会の人たちも、県庁での働きぶりを高く評価している」
「でも……僕は政治なんて……」
政治家という言葉には、幼い頃からどこか濁った響きがあった。
森は続けた。
「今度の選挙は、あの経済連携協定が最大の争点になる。もし君が賛成の立場を取るなら、正進党の公認が得られる。不安を訴える声もあるが、未来を信じる声もある。君のような若者が立ち上がる意味は大きい」
夜、帰りの車の中で、道本はハンドルを握りながら考えた。
政治家になるなんて、ありえない――そう思ってきた。
だが、地元企業の人々と接する中で感じてきた不安や停滞を変えるには、制度を作る側に回るしかないのかもしれない。
窓の外を流れる街の灯りが、いつもより遠くに見えた。
数週間後、正進党の本部で公認が決まった。
「若いけど、誠実さが伝わる。それが一番だ」
森の言葉に背を押され、道本は初めて街頭演説に立った。
「この町の技術と人の力を、世界へ届けたい!」
その声はまだ頼りなかったが、聴衆の中には確かに頷く人々がいた。
地元選挙区の立候補者の中で、EPA賛成を掲げた唯一の候補として注目され、やがて情勢は追い風に変わっていった。
投開票の夜。
小さな事務所に歓声が上がった。
道本慶一郎、初出馬にして初当選。
森は涙を浮かべて手を握った。
「ありがとう……君に託してよかった」
道本は、喧騒の中でふと窓の外を見た。
夜空には薄い雲がかかっていたが、遠くの街明かりがその向こうに淡く滲んでいた。
――この光を、濁らせないように。
心の中でそう呟いた。
(影を裂く声)
当選から十六年。
五十歳になった道本慶一郎は、今や党内でも着実に存在感を高めつつあった。
正進党所属の衆議院議員として、現在は文部科学大臣政務官を務め、教育・科学技術分野の政策調整に携わっている。
地元経済から国の研究開発に至るまで、現場感覚を生かした実務派として知られ、地味ながらも官僚や与党内での信頼を着実に積み重ねてきた。
彼が属するのは、かつて長谷川宗輔元法務大臣が率いた穏健保守の派閥。――森が属していた派閥にそのまま入会した形だ。
だが、その長谷川が引退した今、派閥は槌谷一央のものとなっていた。
政界における槌谷の影響力は強大だった。古賀政権の崩壊後、党内の主流を取りまとめ、新たな政権を打ち立てたのが彼だ。
だがその手腕の裏に、どこか薄暗いものを感じるようになったのは、道本だけではなかった。
ある日の派閥会合。
日中共同人材交流・先端研究連携構想「日中次世代人材育成・研究連携プログラム(略称:JCFP)」
――そう銘打たれた新たなプロジェクトが発表された。
表向きは日本と中国が人材・技術の分野で協力し、技術革新と経済連携の促進を進めるというもの。
しかし配られた資料を目にした瞬間、道本の心に警鐘が鳴った。
“先端技術の共有”“共同特許申請制度”――いずれも、日本の研究成果が容易に国外へ流出しかねない内容だった。
「こんなものが、本当に国益になるのか……?」
議員宿舎に戻った夜、道本は資料を机に広げたまま、眠れずにいた。
翌朝、彼は同じ派閥の先輩議員・伊計かずえの部屋を訪ねた。
伊計は冷めたコーヒーを手に、穏やかに言った。
「慶一郎くん、少し考えすぎじゃないかしら。総理がここまで準備してる案件よ。きっと裏で安全策も考えてるわ。」
その言葉に、道本は返す言葉を失った。
だが、数日経っても胸のつかえは取れなかった。
道本は思い切って、経済産業大臣・高村浩二のもとを訪ねた。
高村はデスク越しに資料を読み、静かに頷いた。
「……ふむ。内容は興味深いが、確かに一方的すぎるな。……俺は昔から、槌谷総理の“方向性”には疑問を持ってる。」
「やっぱり、そう思われますか。」
「思う。だがこれは派閥の内々で動いている案件だ。下手に動けば、すぐ潰される。」
それでも二人は、関係省庁の資料を洗い始めた。 だがどの文書も“非公開”“再提出中”の印が押され、手がかりは掴めない。
「上からの指示で……」
経産官僚の一人が口にしたその言葉が、全てを物語っていた。
数日後、高村は党本部で槌谷と直接会談を行った。
「総理、この構想の内容について、私どもにももう少し説明をいただけませんか。技術移転や資金の流れなど、不透明な点が多い。」
槌谷は、笑みを崩さずに答えた。
「高村君、細かいことを気にしすぎだ。これは経済外交の新しい形なんだ。今の時代、鎖国的な発想では世界に置いていかれる。」
議論は平行線を辿った。
最後には槌谷の側近たちが会話を断ち切り、会談は形だけで終わった。
その日の夕方。
高村は重くため息をついた。
「このままじゃ、握りつぶされるな……羽生政調会長に話を通そう。」
道本はうなずいた。
「お願いします。」
翌週、党本部の政策会議室。
羽生晴子政務調査会長は資料を一瞥し、即座に言った。
「これは危険ね。日本側の主導権がどこにもない。……白川さん、動けますか?」
経産副大臣の白川舞が頷く。
「省内の審査を徹底します。必要なら、内部監査も。」
羽生の指示のもと、調査が始まった。
白川が省内から引き出した機密資料には、中国側の企業が共同出資の名目で研究費の大半を握り、成果物の知的財産を「共有」とする条項が記されていた。
報告を受けた羽生は、党執行部の緊急会議でその内容を公にした。
「この構想は、国家の技術的主権を危うくします。」
羽生の厳しい言葉に、会場は静まり返った。
槌谷は、無表情のまま一言だけ返した。
「……分かった。構想は一度、白紙に戻そう。」
その瞬間、空気がわずかに揺れた。
長く張り詰めていた糸が切れるように。
だが道本の胸には、達成感よりも奇妙な空虚さが残った。
――自分は何も出来なかった。
最初に危険を感じたのは自分だったのに、結局、自分には何一つ変えられなかった――その思いだけが、胸の奥に沈んでいた。
(信念の灯)
計画の白紙化が決まったあとも、道本の胸には重いものが残っていた。
高村や羽生の迅速かつ、的確な対応に、ただ圧倒されるばかりだった。この二人に比べ、自分は何一つ成し遂げられなかった。
槌谷の説明を追及しようと何度も発言の機会を求めたが、若手議員である彼の声は会議のざわめきに飲まれ、誰にも届かなかった。
資料の分析を任された際も、関係部署から提示されたものは黒塗りばかりで、何一つ掴めずじまい。
――結局、自分には、何もできなかった。
その無力感の中で、彼は一つの決意をする。
「もう槌谷派にはいられない」
そう悟った彼は、高村の誘いを受け、高村派へと移籍した。
しかし、今回の件で道本を恨んだ槌谷の報復は容赦なかった。
週刊誌やテレビ番組が一斉に「極右議員・道本慶一郎」「差別主義の急先鋒」といった見出しを掲げた。
街を歩けば、知らない人々の冷たい視線が刺さる。
同僚議員の中には、露骨に距離を取る者もいた。
「正しいことをしたはずなのに……」
その言葉は、自分に向けても響かなくなっていた。
ついには、議員辞職の二文字が脳裏をよぎった。
ある日の夕刻、道本は党本部の会議室で一人、資料を片付けていた。
扉が開くと、羽生晴子が入ってきた。
彼女は柔らかく微笑み、道本に向かって言った。
「先日は、ありがとうございました」
突然の言葉に、道本は目を瞬かせる。
「え?何の……お礼ですか?」
「槌谷総理の構想を止めるきっかけを作ってくださったのは、あなたです。あなたが動かなければ、私たちも気づけなかったかもしれません」
道本は視線を落とし、ゆっくりと首を振った。
「そんな……私は、何もできませんでした。
高村さんやあなたが動いたから、止められたんです。私は、ただ……空回りしていただけで、もう……」
道本は俯いたまま、唇を噛んだ。
――目を閉じると、街行く人々の、自分を見つめる白い目が目に浮かぶ。
「……もう、自分には何が正しいのかも分からないんです」
羽生は静かに彼を見つめ、席に腰を下ろした。
会議室の窓から射す夕陽が、彼女の横顔を照らしていた。
「誰かに正しさを決めてもらおうとするから、分からなくなるんです。自分が信じる正しさを、最後まで手放さない人だけが、この国を動かせる。あなたが国のために苦しんだその時間が、もう答えなんですよ」
その言葉は、道本の胸を貫いた。
涙を隠すように、道本は頭を下げてその場を去った。
窓の外では、オレンジ色の空が群青に変わり始めていた。
その光の移ろいを見つめながら、道本は小さく息を吐いた。
――まだ、終わりじゃない。
その夜、彼はデスクの上の辞表を、引き出しにそっと仕舞った。
どれほど力不足でも、蔑まれても、背を向けるわけにはいかない。
自分は、国民に選ばれた議員なのだから。
胸の奥で、再び小さな炎が灯り始めた。
それはまだ弱々しくとも、確かに信念の灯火だった。
(二つの 鼓動)
国民に厳しく、外国に甘い——
そう評されるようになった槌谷政権への不満は、日に日に高まっていた。
物価高に対する無策、中国への譲歩を重ねる外交。
街頭では批判の声が幾度となく響いた。
「槌谷は日本を売る気か!」
槌谷に辞任を求めるデモが、日本各地で勃発した。
内閣支持率は、正進党史上最低の7%。
党への信頼も急落し、街の空気には重苦しい諦めが漂っていた。
一方、台頭してきたのは新興政党「護国の集い」
党首・水野崇史の演説は、激情と理路が入り混じり、聴衆を惹きつけた。
「国民には増税を押し付け、企業には規制を課す。だが、外国にはどうだ?金をばらまき、頭を下げ、笑顔を振りまいている!」
「槌谷政権は“国際協調”の名のもとに、日本の誇りと技術を、他国に売り渡そうとしている!私は声を大にして言う!我々は――この国を、国民の手に取り戻さなければならない!!」
その瞬間、群衆が一斉に歓声を上げた。
水野の熱が、停滞した政治への怒りを火種に変えていた。
「真の保守政党」を名乗る護国の集いは、瞬く間に支持を広げ、国民の不満を背に、その勢いを増していく。
その頃、正進党本部では混乱が極まっていた。
槌谷の退陣表明。
党の未来を決める総裁選が、目前に迫っていた。
その騒然とした政界の渦中、道本は一通の電話を受けた。
差出人は、高村浩二。
――翌日、経産省の応接室。
壁にかけられた時計の針が、昼を少し過ぎた時刻を指している。
高村はソファに深く腰を下ろし、腕を組んだまま、道本を見据えた。
「次の総理は、おそらく田島さんだろう」
田島佐市——かつて古賀政権下で幹事長を務めた他、外務大臣や総務大臣といった重要ポストを歴任してきた男。
実務能力に長け、党内でも屈指の調整力を持つ。
“古賀の右腕”と呼ばれたその名は、誰もが知る存在だった。
高村は続けた。
「今のうちから、君を田島さんに売り込もうと思う。上手く行けば、大臣のポストを打診されるかもしれん」
道本は、反射的に顔を上げた。
「だ、大臣……ですか? 私が……?」
「そうだ」
高村は頷く。
「君にはもう、それだけの器がある。そう思っている」
道本は、しばらく何も言えなかった。
胸の中で、過去の自分の姿が蘇る。
羽生や高村と共に動いたあの日。
資料を集め、証拠を探し、しかし何も掴めず終わった。
そして、ぽつりと呟くように言った。
「……高村さん、私には無理です」
「無理?」
高村の眉がわずかに動く。
「私は、あの時、何もできなかった。高村さんや羽生さんが動いてくれたから、あの構想は止められたんです。私はただ……空回りして、足を引っ張っただけです」
静まり返る応接室。
その言葉の重さを測るように、高村は目を細めた。
そして数秒の沈黙のあと——
「……あはははっ!」
突然の笑い声が、部屋に響いた。
道本は驚いて目を見開く。
「え……な、何がおかしいんですか?」
高村は笑いながらも、目尻を拭った。
「すまん、すまん。いや……あまりに君らしいと思ってな」
「らしい……?」
「そうだ。君はいつも、自分のことを低く見過ぎている。だがな、俺から見れば、あの時の君は誰よりも真っすぐだった」
高村は続けた。
「君の正確な報告書のお陰で総理の構想に気付けた。君が集めてくれた資料は判断材料として、十分に役に立った。その一つひとつが、俺たちを動かしたんだ。俺も羽生さんも、君のことを頼もしく思っていたよ」
高村の声には、確かな温度があった。
「若さに似合わぬ思慮深さ。そして、若さ故の行動力。
確かに空回りした部分はあった。だがな、空回りなんていくらでもすれば良い。本気で政治をやろうとすればするほど空回りするものだ。それでも諦めずに手を伸ばし続けた者が国を動かせるんだ。君は、経験を積めば必ず——日本にとって必要不可欠な政治家になる」
その言葉に、道本の喉が詰まった。
息を飲み、言葉が出ない。
高村はふと表情を和らげ、静かに言った。
「正直、驚いたよ。君が自分をそんなふうに責めていたなんて……気付いてやれなかった。もっと早く、君の評価を言葉にしてやればよかった」
道本は顔を背け、震える手で目元を押さえた。
必死にこみ上げる涙を抑えようとしたが、指の隙間から零れ落ちる。
「……ありがとうございます……高村さん……」
言葉は掠れていたが、そこに確かな決意があった。
高村はその姿を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「もう一度言う。君はこの国に必要な人間だ。
胸を張れ。これからの正進党を、共に立て直そうじゃないか」
窓の外では、冬の陽がゆっくりと沈み始めていた。
その光は淡く、けれど確かに、道本の頬を照らしていた。
(夜明けの気配)
総裁選を前に、党内は慌ただしさを増していた。
最有力と目されるのは、やはり田島佐市だった。
その名が新聞やテレビを賑わせる一方で、政界の裏では静かに、だが確実に人脈の糸が動き始めていた。
ある晩、都内の料亭。
障子越しに灯る淡い光が、三人の輪郭をぼんやりと照らしていた。
高村浩二、田島佐市、そして道本慶一郎。
湯気の立つ鍋を囲みながら、今後の政局の展望や党の行方について、穏やかでいて張り詰めた会話が続いた。
やがて、高村が盃を置き、口を開いた。
「田島さん。彼を紹介しておきたくてね。道本慶一郎君――将来、必ず我が国に欠かすことのできない貴重な人材になると思っています。」
田島はゆっくりと道本の方を見た。
穏やかな笑みの奥で、目だけが鋭く光る。
「……噂はかねがね伺っているよ」
低く落ち着いた声が、部屋の空気を一段と引き締めた。
盃を傾けた田島は、ふと語調を変える。
「この国は、いま曲がり角に立っている。経済も、外交も、教育も、安全保障も。どれ一つとして、悠長に構えていられる状況ではない。
私が総理になった暁には、生半可な覚悟の者を閣僚に置くつもりはない。」
道本は背筋を正した。
胸の奥に、高村と羽生の言葉がよぎる。
己の無力を知り、それでもなお、国を思う気持ちだけは失わなかった日々。
静かに口を開く。
「――覚悟なら、高村さんと羽生さんに教えていただきました。もう絶対に迷いません」
それは田島の胸に届く、確かな響きだった。
田島はしばし黙し、やがて穏やかに微笑む。
「……日本は好きか?」
道本は短く、しかし力強く答えた。
「――はい。命に代えても、守りたい国です」
その一言に、迷いはなかった。
田島はにっこりと笑い、軽く頷く。
「期待している」
その言葉を最後に、会食は幕を閉じた。
料亭の外に出ると、夜風が頬を撫でた。
街の喧騒は遠く、澄んだ空に星が瞬いている。
道本は立ち止まり、しばらくのあいだ空を見上げた。
紺碧の夜空の向こうには、遠い夜明けの気配があった。
AIに生成してもらった、田島佐市のイメージ画像