(新たな門出)

総裁選、そして首相指名選挙を経て——
第97代内閣総理大臣となったのは、田島佐市。

その瞬間、日本中に歓声が広がった。

長く続いた政治への不信、停滞した政策、国を蝕む不安。
それらを断ち切る存在として田島を待ち望んでいた国民は、
“田島ならやってくれる” と期待を寄せた。

翌日、新内閣の顔ぶれが発表される。

そこに並んでいた一つの名前が、政治の世界に小さな衝撃を走らせた。

――文部科学大臣・道本慶一郎。

党内にはざわめきが広がった。
槌谷をはじめとする親中派の議員たちは露骨に不満を示した。

また「わざわざメディアから“極右”と叩かれている人物を起用すれば
 無用な火種になるだけだ」と批判する声も上がった。

一部のメディアは早速、過去のレッテルを引っ張り出し「急進的な保守派の起用」と見出しを並べ、慎重論を煽り立てた。

そして迎えた新内閣の記念撮影。

緊張から、背広の襟を軽くただす手が震える。
スポットライトの熱と、シャッター音の連打。
慣れない眩しさに、道本の笑顔はやや強張っていた。

だが、真正面を見据えたその目に迷いはなかった。

批判があろうと、揶揄されようと——
子どもたちの未来と、この国の根を正す仕事をやるだけだ。

その決意だけが、胸の奥で静かに燃えていた。



(正すべきもの、託されたもの)

長く続いた前政権の迷走は、行政・外交・教育のあらゆる領域に負の遺産を残していた。
国民の間には諦観が広がり、「もう日本は駄目かもしれない」という声すら聞こえ始めていた。

だが、田島佐市が第97代内閣総理大臣に就任したその瞬間、日本の空気は明らかに変わった。

田島政権発足直後――
政府は矢継ぎ早に、前政権が残した歪みの是正を断行した。

中国企業との不透明な事業委託の全面見直し。
安全保障上疑義のある共同研究の凍結。
国内産業を弱体化させかけた政策の撤回。

「まずは国の軸を戻す」
田島の方針は明確で、強く、そして早かった。

国民の間には、久しぶりに前を向く空気が生まれ始めていた。

――そして、道本慶一郎は、その改革の一角を担う文部科学大臣として動き出していた。

道本は連日、省内の資料を片っ端から読み込み、誰よりも早く執務室に入り、誰よりも遅く灯りを消した。

まず着手したのは、教育現場に残された前政権の遺物の整理だった。

形骸化した補助事業、不透明な研究委託、外国からの過度な影響が指摘される教育プログラム――
それらを一つひとつ洗い直し、不要であれば大胆に廃止し、必要な部分は再構築した。

しかし、彼の真骨頂はそこからだった。

自虐史観を伝える歴史教育の是正。
この課題に、道本は迷いなく踏み込んだ。

「子どもたちが間違った罪悪感に縛られる必要はない。正しい歴史を伝え、事実を直視しながらも、自国の歩みに誇りを持てるようにすること――それが教育の責任です。」

道本は、有識者会議を再編し、教科書検証の専門チームを立ち上げた。

国立博物館・資料館の展示方針の見直しにも乗り出し、教材となる史料の真正性や解釈の偏りを丹念に確認した。

省内の職員は、その仕事量と判断スピードに舌を巻いた。

「大臣、こちらの案件ですが――」
「昨日の続きですね。進捗を確認させてください」
「すでに対応案まで……?」

以前は地方官僚として現場を駆け回っていた彼の経験が、ここにきて存分に発揮されていた。
机上の議論だけでなく、教育現場の実情を理解した上で政策を組み立てる。
その姿は、着任初日から一貫して揺るぎなかった。

省内の職員は口を揃えて言った。

「この人は、“何を守りたいか” がはっきりしている。」

夜遅く、省の廊下に一人、資料を抱えて歩く道本の横顔には、疲労は有っても迷いはなかった。
それは、彼が初めて国政に踏み出した頃の若い不安とはまるで違う。
覚悟を持った者だけが纏う、静かで強い光だった。



(嵐の只中で)

道本慶一郎が文部科学大臣として打ち出した、歴史教育の是正。
この改革は、日本の教育政策の流れを大きく変える第一歩となったが、それは同時に、激しい逆風の始まりでもあった。

特に一部の大手メディアの反発は凄まじかった。

連日テレビでは、コメンテーターが眉をひそめる。
新聞の紙面には、強い言葉が並ぶ。
ネットニュースの見出しは、彼を挑発的に煽る。

理由は明白だ。
道本に「極右」「差別主義者」とのレッテルを貼った過去を、今さら撤回できないからだ。

過去の報道を自己否定するわけにはいかない。その意地が、批判の炎をさらに燃え上がらせていた。

そしてもう一人、道本を激しく攻撃し続ける人物がいた。
──槌谷一央。

自らの構想を外部へ漏らし、阻止し、派閥を離れた道本への恨み。
それは退任した今も、消えていない。
槌谷はメディアでの発言、パーティーでの挨拶、
あらゆる場面で皮肉と嘲笑を交えてこう語った。

「道本君のような人物を重用するようでは、この国の未来は暗い」

その言葉は瞬く間に切り取られ、拡散され、
批判的な世論をいっそう刺激した。

――だが、全てが敵ではなかった。

道本の改革を歓迎する国民も、確実に存在した。

戦後教育の偏りに疑問を抱いていた層は、彼の歴史教育の見直しを「ようやく真っ直ぐな議論が始まった」と評価した。

SNSでは匿名の若者だけでなく、教師、研究者、主婦、自営業者まで、
幅広い層からの支持メッセージが寄せられた。

「大臣、ありがとうございます」
「ようやく子どもに胸を張って歴史を話せる時代になる」
「批判に負けないでください」

その声は毎日のように、道本の事務所に届いた。
印刷して渡された厚い束をめくるたび、
道本は小さく息をつく。

――見てくれている人は、確かにいる。

しかし、すべての世代が同じように情報へアクセスできるわけではない。

特にインターネットを使わない高齢層の多くは、
テレビ報道の印象だけで道本を「危険な人物」と見なしていた。

街頭演説に立てば、
「若造が余計なことをするな!」
「歴史を弄ぶな!」
という怒号が飛んでくることもあった。

称賛と批判。
期待と失望。
理解と誤解。

国民は、まっぷたつに割れていた。
批判も称賛も、同じように押し寄せ続けている。

しかしその渦中にあっても、道本は一つひとつの政策を着実に前へと進めていった。

こうして道本慶一郎の文科相としての最初の一年は、嵐の中心に立ちながらも揺るがぬ姿勢で歩み続けた、彼らしい軌跡として刻まれていった。



(その日は突然に)

田島内閣は高い支持率を維持したまま、衆議院を解散した。

選挙戦は、もはや勝敗を語るまでもなかった。圧倒的な議席を獲得し、盤石の体制で第二次田島政権が発足した。

槌谷政権の失政で冷え込んだ経済は、田島の政策転換でゆっくりとだが確実に復調の兆しを見せていた。

中でも大きかったのが、太平洋地域の国々との連携強化である。
経済・安全保障の両面で日本の立ち位置は再び確かなものとなり、日本社会にはかつて失われていた“未来への希望”が戻りつつあった。

そして──第二次田島内閣は、正進党にとって長年の政治課題であり、誰もが強烈な反発を恐れて手をつけられずにいた憲法9条改正に、ついに踏み込んだ。

国民の間には、ただならぬ期待が広がっていった。

「やっと日本が正常になる」
「この国を守る法律がついにできるのか」
「田島さんなら信じられる」

希望の声が、SNSを中心に大きなうねりとなって広がっていった。

だが、予想通りこの法案は党内外に大きな波紋を広げた。

護国の集いは明確に賛成の立場を取り、水野崇史は「日本は自分の国を自分で守らねばならない」と訴え、保守層から強い支持を得ていた。

当然反発も大きく、平和党は国会で厳しく反対し、党内の親中派議員たちも「戦争を招く危険な改憲だ」と声を荒らげた。

しかし──田島を中心とする保守派議員たちは、微塵も怯まなかった。

「国を守るために必要だ」
「日本を未来へつなぐために、我々がやるしかない」

国会には久しくなかった活気が満ちていた。
深夜まで続く調整、原案の精査、国民への説明戦略──議員たちの熱意は、確かに“前へ進んでいる”という実感を生んでいた。

──だが、その日は突然に訪れた。

朝のニュース速報が、全国のテレビ画面に無機質な文字を映し出した。

「田島佐市総理大臣、死亡。首吊り自殺か。」

その一文だけが、冷たい刃のように国中を刺し貫いた。

昨日まで国の未来を語っていた総理が…もう、この世にいない。

期待も、熱気も、希望も…一瞬で消え去った。



(灰の中の火種)

田島総理の自殺が報じられたその日、日本中が深い衝撃に包まれた。
国民は言葉を失い、保守派議員たちの間にも悲しみと動揺が広がった。

公式には自殺と断定された。

遺体に争った痕跡はなく、警察の発表も一貫している。
だが、不可解な点はあまりにも多かった。

田島総理は、自宅ではなく、誰も住んでいないアパートの一室で首を吊って発見された。

現場にはプリントアウトされた短い遺書が残されていたが、本人の筆跡はなく、内容もあまりに事務的だった。

さらに、亡くなる直前までの田島の様子が、どうしても「自ら命を絶つ人物」とは結びつかなかった。

「憲法九条の議論は、未来への責任だ。
 この国を、次の世代にどう手渡すのか――それを決める覚悟を、今こそ示さねばならない」

街頭演説でも、会合の場でも、田島はこれまで以上に熱を帯びた言葉で語っていた。

その姿は、希望と闘志に満ちていた。
今から自ら命を絶つ者の言葉とは、あまりにもかけ離れていた。

やがて、暗殺説が囁かれ始めた。

根拠は状況証拠に過ぎない。だが、それでも疑念は消えなかった。

田島のもとで憲法9条改正を議論していた保守派議員たちの中には、身を引く者も現れた。
恐怖を感じたのだろう。

この議論を続ければ、次は自分かもしれない――そう思えば、逃げたくなる気持ちも当然だろう。

だが、全員がそうではなかった。

夜、明かりのついた会議室に入ると、すでに数人の議員が集まっていた。
重苦しい空気が、部屋の奥に澱んでいる。

道本に目を向けると、金森哲也が口を開いた。

「君は……田島総理の自殺について、どう思う?」

道本は一瞬だけ視線を落とし、はっきりと答えた。

「自殺なんて、する人じゃありません」

それを聞いて、羽生晴子がゆっくりと顔を上げた。
しばらく黙ったまま、何かを噛みしめるようにしてから、静かに語り始める。

「田島さんはね……揺るがない人でした。
どれだけ批判されても、どれだけ孤立しても、この国の未来を考えることをやめなかった。
だからこそ……無念だったと思うんです。志半ばで倒れることが、どれほど悔しかったか……」

言葉を切り、羽生は道本を見た。

「道本さん。槌谷さんが、田島さんの死について何と言ったか、知っていますか?」

「……いえ。知りません」

羽生は、目を伏せたまま続けた。

「『田島総理の自殺は誠に残念だが、9条は守られ、日本が戦争から守られたのも事実だ』……そう、コメントしました」

道本は思わず眉をひそめた。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。

「田島さんは、本気でこの国を愛していました。あの人の命と引き換えに“守られた”などと……。それは田島さんを、日本を、侮辱している!」

羽生の声は、次第に熱を帯びていく。

「こんなことで、この議論が終わると、本気で信じているのでしょうか。恐怖で、人は黙るとでも!?」

「……少し落ち着きなさい」

金森が静かに制した。

「君がここまで感情を顕にするのは、珍しいな」

羽生ははっとしたように口を閉じる。

その隣で、白川舞が何も言わず、そっと羽生の肩を撫でた。

そのとき、扉が開いた。

「やはり、ここに居たか」

入ってきたのは高村浩二だった。

彼は部屋を見回し、低い声で告げる。
「古賀副総理が、総裁選に動き出しているらしい。それと……一人、また一人と、9条改正の議論から身を引く者が出ている」

誰も言葉を挟まない。

「田島さんが成し遂げたかったこの改正案は……今後、さらに難しくなるだろう」

しばし沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、白川だった。

「……それでも」
「それでも、田島さんの意志を継ごうとする人が、いなくなるわけじゃありません。決して、少数ではないはずです」

その言葉に呼応するように道本が口を開く。

「……田島総理は、逃げませんでした」

全員の視線が、道本に集まる。

「だったら、私も逃げません。ここで退いたら、私は一生、自分を許せなくなる」

その声は静かだった。
だが、迷いはなかった。

道本をまっすぐに見つめる羽生の真剣な眼差しは、やがて笑顔に変わった。

「恐怖で止まるなら、私たちは最初からここにはいませんよね」

「そうだな。田島さんが信じたこの国を、俺たちが信じなくてどうする。」

高村の言葉に全員が頷いた。

その場にいた全員が理解していた。
ここから先は、引き返せない。
そして――引き返すつもりもない。

静かな決意が、部屋の空気を塗り替えていった。

この灰の中の小さな火種が、再び炎を巻き起こす日を信じて…



(計算された一手)

春の強い風が永田町を吹き抜けて、議員会館の桜が散り始める頃、政界にも新たな風が吹いていた。

田島前総理の死後に行われた総裁選にて、在原康雄が新たに総裁、そして首相へと選出された。
だが、その船出は祝福よりも緊張に包まれていた。

総裁選勝利の立役者となったのは、親中派議員の槌谷元首相だった。
決戦投票の際には協力してもらえるよう、予め槌谷に要請していたのだ。

結果、勝利を手にしたが、それは同時に足枷にもなっていた。

在原は、環境政策や防衛力強化など、一定の成果を示し、確かな手腕を見せた。
だが、財源を巡っては国民の反発を招く増税に踏み切らざるを得ず、外交の場では思い描いた強い姿勢を貫けない瞬間もあった。
表には出ない力学が、要所要所で舵を鈍らせる。

国民からの評価は賛否が別れ、支持率は上向くことなく、静かな横ばいを続けた。

やがて在原は、田島前総理から引き継いだ任期をもって退任を表明した。やり残した思いがないはずはない。それでも、区切りをつけるという選択だった。

再び総裁選が動き出す。

永田町は早くも次の顔を求め、正進党最大派閥・古賀派の後ろ盾を持つ加賀見の名が有力候補として取り沙汰された。
一方で、世論調査では絶大な人気を誇る羽生の待望論が日増しに高まっていく。
親中派議員の支持を集める秋山も無視はできない。

「加賀見対羽生の一騎打となるか、秋山も含めた三つ巴となるか」

テレビも新聞もそう報じ、街の声もまたその構図をなぞった。
総裁選は、すでにその三人を軸に回り始めているかのようだった。

そんな空気の中、ある夜、道本のもとに高村から短い連絡が入る。

指定された議員会館の一室を訪ねると、室内には高村のほかにもう一人、背筋を伸ばして座る男の姿があった。

佐藤弘雅外務副大臣――高村派の先輩議員であり、慎重で知られる実務家だ。

扉を閉めると、高村がゆっくりと顔を上げた。

「来たか、道本君。」

「急に呼び出してすまないね」

佐藤がお茶を差し出した。

道本が軽く頭を下げて席に着くと、高村は間を置かずに言った。

「単刀直入に言うぞ。総裁選に出ろ、道本君」

一瞬、言葉の意味を測りかねるように、道本の視線が揺れた。

「……なぜ私なのですか。高村さんこそ、出馬されるべきではありませんか?」

それは当然の疑問だった。
派閥を束ね、党内に顔が利き、実務にも通じる高村の方が、どう考えても自然に思える。

だが高村は首を横に振る。

「俺はな、トップに立って全体を動かすよりも、一つの要職について、一つの仕事に集中してこそ力を発揮するタイプだ」

言い切る声は、自己卑下ではない。
冷静な自己分析だった。

「総理の椅子に座るより、現場で汗をかく方が向いているのさ。」

その横で、佐藤が穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。

「今回は勝つためじゃない。君の名を売るためだ。次を見据えた一手だ」

シンプルな言葉だったが、含まれる意味は重い。

道本は二人の顔を交互に見た。
部屋の空気が、少しだけ緊張を帯びる。

道本は問いかけた。

「名を売る……それだけですか」

高村は頷く。

「それだけだ。ただし軽い意味じゃない」

「羽生大臣が正式に出馬を表明した。今回は羽生大臣に勝ってほしいと思っている。彼女こそ総理に相応しい。君もそう思うだろう」

そう言いながら、佐藤が机の上に一枚の紙を広げる。票読みの簡易な数字だった。

高村が指で示す。

「今のままなら、加賀見大臣と羽生さんの決選投票になる可能性が高い」

「ええ」

「問題はそこだ。決選になれば、議員票の地盤が厚いのは加賀見大臣の方だ。羽生さんは党員票では強いが、議員の結束では不利になる」

道本は黙って聞いている。

「だからと言って、俺たちが最初から羽生さん支持に回っても状況は変わらない。票は固まらん」

高村の声は淡々としている。

「だが道本君、お前が出れば話は別だ」

「私が……票を割る?」

「割るんじゃない。拾うんだ」

即答だった。

「未定の票がまだある。加賀見大臣に流れそうな議員もいるが、本心では迷っている連中だ。あの議論から距離を置いたが、完全に捨てたわけじゃない。中には周りに流されてなんとなく身を引いた者。やはり諦められない者、逃げたことに後悔してる者も居るだろう」

部屋の空気が少しだけ引き締まる。

「改憲の議論を、もう一度、正面から掲げろ」

高村の視線は真っ直ぐだった。

「田島前総理が最後まで向き合った議論だ。暗殺だ陰謀だと騒ぐ必要はない。ただ、“あれは終わっていない”と示せばいい」

佐藤が静かに補足する。

「親中派は加賀見大臣も羽生大臣も嫌いだ。決選投票ではそこの票が割れるだろう。地方票は羽生大臣が強い。我々で何度も試算した。第一回投票で君が一定数を確保し、決選でそれを羽生大臣に集めれば、勝ち筋は見える」

高村が続ける。

「要は流れを作るんだ。加賀見大臣の一本調子の空気を崩す。議論を再燃させれば、票は動く」

道本はゆっくり息を吐いた。

「私は……勝たなくていい、ということですね」

「今回はな」

高村は迷いなく答える。

「だが無意味な出馬ではない。議員に覚悟を問う場になる。そこに君の名前が刻まれる。それが次につながる」

佐藤が穏やかに言う。

「羽生大臣を勝たせる。そのための一手であり、君自身の布石でもある」

道本はしばらく考え込む。

自分が火をつける。
だが、その炎は別の人間を押し上げる。

簡単な役回りではない。

それでも――



(流れを変える見えざる戦い)

翌日、道本は正式に出馬を表明した。

古賀派を背負う加賀見。国民的人気を誇る羽生。対中協調を掲げる秋山。若手の道本。これで四人の候補者が揃った。

永田町の空気は、一気に熱を帯びた。

報道は、加賀見・羽生・秋山の三つ巴の構図を中心に回っていく。
「安定か、刷新か、協調か」――分かりやすい言葉で三者を切り分け、テレビは連日、勝敗の行方を占った。

道本の名も一覧には並ぶが、文字は一回り小さく、扱いは“若手の挑戦”という枠を出ない。
番組の最初に一言触れられるだけで、すぐに本命候補の分析へと話題は移っていった。

討論会、街頭演説が連日のように続く。
加賀見は実績と組織力を強調し、羽生は国民目線を訴え、秋山は国際協調を前面に出した。

東京、秋葉原で行われたある日の街頭演説。

ネオンの灯り。
スマートフォンを構える若者。
腕を組んで見上げる中年の男性。
そして、遠巻きに様子をうかがう記者たち。

加賀見が、羽生が、秋山が――マイクを握り、それぞれの思いを強く訴える。それぞれの陣営の色が、はっきりと音になって広場を満たしていた。

最後に名前を呼ばれたのが道本だった。

道本が立つと、先ほどまで他候補に向けられていた熱狂は消え、広場には奇妙な静寂が広がっていた。

マイクを握った道本は、声を張り上げることもなく、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「田島前総理が示した道は、未完のままです。
あの議論から距離を置いた方もいるでしょう。迷いがあったことも、私は理解しています。
しかし、あの志まで消えてしまったとは、私は思わない。
この国を守る覚悟を、もう一度だけ、問い直したいのです。
一度立ち止まった方も、どうか、もう一歩だけ踏み出してほしい。
私はその先頭に立つ覚悟ができています。」

大きくはなかったが、確かに歓声は上がった。
まばらだったが、確かに拍手が聞こえた。

翌日の世論調査に目立った変化はない。
街頭のインタビューでも、道本の名はほとんど挙がらなかった。

だが、その演説は別の場所で再生されていた。

議員会館の個室。
夜の事務所。
自宅の書斎。

かつて改憲の議論から一歩退いた者たちが、無言でその映像を見つめていた。

道本は誰も責めなかった。
ただ、覚悟を問い直した。

その問いは、国民向けのスローガンではない。
当事者に向けられたものだった。

数日後、若手議員が一人、支持を表明する。
「私は、あの議論から目を逸らしていました」

さらに中堅が一人。
「田島前総理の志は、まだ終わっていない」

目立つ動きではない。
だが確実に、流れの底が揺れ始めていた。

道本のもとへ、一人、また一人と支持者が集まっていく。
表舞台では熱狂的な三つ巴の戦いが続くなか、水面下では別の流れが、確かに生まれ始めていた。



(青天の霹靂)

秋葉原での演説から数日後、永田町に一本の速報が走った。

その報せは、まるで雷鳴のように党本部を駆け抜けた。

昼下がりの議員会館。廊下のあちこちでスマートフォンが震え、秘書たちが慌ただしく走り回る。最初は誰もが聞き間違いだと思った。

最大派閥・古賀派の長であり、副総理でもある古賀が、加賀見ではなく羽生支持を表明したのだ。

古賀派の若手は蒼白になり、加賀見陣営の幹部は言葉を失う。これまで順調に積み上げてきた票読みが、音を立てて崩れていくのが見えるようだった。古賀の動きは、それだけで“流れ”を変える力を持っていた。

「裏切りだ」
「派閥の論理を壊すのか」

批判の声が上がる一方で、様子見を決め込んでいた議員たちは一斉に計算を始める。

やがてテレビ各局が一斉に速報テロップを流し、日本全体がざわめきに包まれる。
記者団に囲まれ真意を問われても、古賀は穏やかな笑顔を浮かべ「最も総理に相応しい人物を支持しただけだ」と語るだけだった。

それ以上は語らない。その含みを残した態度が、かえって議員たちの胸をざわつかせる。

そして迎える総裁選開票日。
緊張が満ちている党本部の大ホール。

事前の情勢通り、羽生が党員・党友票で圧倒的なリードを見せ、地方の支部から積み上がった数字が読み上げられるたび、会場の空気は羽生へと傾いていく。

そこに、古賀の支持表明をきっかけに流れ始めた議員票が重なる。

決選投票を待つまでもなく、羽生の当選が告げられた。

会場には大きな拍手が広がる。立ち上がる者、固く握手を交わす者、その中心で羽生は深く頭を下げた。その姿は、勝者の誇示というより、新たな責任を受け止める覚悟を示すようにも見えた。

少し離れた場所から、その光景を見つめていた道本は、胸の奥が静かに震えるのを感じていた。

歓声の奥で、何かが確かに動き出している。名も形もまだ定まらない、新しい潮流が、これまでの均衡をゆっくりと押し広げていく。その先に広がる景色はまだ見えないが、新しい時代の輪郭が、ゆっくりと浮かび上がろうとしている。

その先に待つ次の局面を、道本は静かに見据えていた。



(終章 未来へ続く道)

羽生政権の誕生からおよそ二年。
春の名残を残しながらも、街路樹の緑が濃さを増し始めた頃、政治の季節もまた大きく巡っていた。

任期半ばで断行された解散総選挙は、激しい論戦の末に与党の歴史的圧勝で幕を閉じる。
国民の審判を受け、羽生は改めて政権を託された。

こうして第二次羽生内閣が発足する。

党本部での人事発表の場。
一つひとつ読み上げられる名前の中に「内閣官房長官 道本慶一郎」の文字があった。

第一次羽生政権での、防衛大臣としての発言や国会答弁はインターネット上でもたびたび取り上げられ、国民の間でも「頼れる防衛大臣」と呼ばれるようになっていた。

この人事に露骨な異論を唱える者など、もういない。

総理の最側近として政権の要を担う、その重い役職。
閣僚名簿を見つめる記者たちの間に、低いざわめきが広がるのは驚きからではなく、むしろ納得に近いものだった。

かつて「差別主義者」と罵られ、「若手の無謀な挑戦」と皮肉られていた頃の面影はない。
あの言葉は、いまや過去の新聞の片隅に押しやられている。

初夏の柔らかな陽射しが国会議事堂の白い壁を照らすなか、第二次羽生政権による新たな国会が、まもなく始まろうとしていた。


責任と覚悟を胸に、国会議事堂へと続く緩やかな坂道を歩いていると、背後から弾むような声が飛んできた。

「道本官房長官!」

振り返ると、まだ真新しい議員バッジを胸に光らせた若い男が、小走りに駆け寄ってくる。

関谷亮平。
今回の衆院選で羽生の後押しを受け初当選した、いわゆる“羽生チルドレン”の一人、三十二歳の新人議員だ。

額にうっすら汗をにじませながら、関谷はまっすぐ道本を見つめる。

「突然、申し訳ありません。どうしてもご挨拶をと思いまして」

律儀に一礼してから、言葉を続けた。

「私は……道本官房長官のような議員になりたくて、この政界に入りました」

あまりに率直な言葉に、道本はわずかに目を細める。

「文科大臣のときのこと、今でも覚えています。あれだけの批判に一切動じることなく、歴史教育の見直しに踏み切られた。テレビでは連日叩かれて、それでも一度も言葉を濁さなかった。
9条改正の議論でも、田島総理亡きあと、暗殺説が囁かれても、貴方は一歩も引かず、常に最前線に立っていた。」

関谷の声は次第に熱を帯びる。

「迎合しない。逃げない。あの姿を見て、政治は覚悟だと思いました。揺るがない信念があるからこそ、国を動かせるんだと」

一息に言い切ると、関谷は少し照れくさそうに笑い、それでも真剣なまなざしのまま手を差し出した。

「いつか、私もそういう政治家になりたい。その第一歩として、今日から全力で学ばせていただきます。どうか、ご指導ください」

若い掌が、緊張と期待を込めて差し出されている。

差し出された手を見つめながら、道本はふと、先ほどの言葉を思い返していた。

批判に一切動じることなく……か

心の中で、わずかに苦笑する。

動揺がなかったわけではない。
恐怖がなかったわけでもない。

正しいと信じた行動が、まるで罪であるかのように扱われたあの日の記憶。
国会での追及、メディアの批判、街頭で向けられた冷たい視線。

夜更けの執務室で、「辞職」という二文字が何度も脳裏をよぎった。

それでも、引かなかった。

信念が揺るがなかったのではない。
揺らぎながらも、踏みとどまったのだ。

目の前の若い議員を見つめ、道本はゆっくりと手を伸ばした。

力強く、しかし穏やかに握り返す。

「共に、日本を守ろう」

短い言葉だった。

だがその掌には、初当選から二十年近い年月と、幾度も乗り越えてきた迷いの重みが宿っている。

関谷の表情がぱっと明るくなる。

「はい。お願いします!」

握手を終えると、道本はそのまま静かに振り返った。

背後では、関谷がまっすぐな眼差しでこちらを見つめている。その視線を背に受けながら、道本は再び国会議事堂へと歩き出した。

かつては羽生と高村の背中を追い、必死にその歩幅に食らいついてきた。二人の姿が、自分の道標だった。

だが今、若い議員が自分の背中を見ている。

これからは自分が背中で示す番になったのだと、歩みの中で静かに実感する。

これまで歩んできた道に悔いはない。
そして、これから歩む道にも迷いはない。
この国の未来へと続く、自らの道を、ただまっすぐに進むだけだ。

初夏の風が、議事堂へと続く石畳の上を吹き抜けた。


─完─

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